昭和46年05月19日 朝の御理解
御理解 第5節
「是れまで、神がものを言うて聞かせる事はあるまい。何処へ参っても片便の願い捨てであろうが。それでも、一心を立てれば和賀心に神が御座るから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだ事なし。此方が祈る所は、天地金乃神と一心なり。」
ただ悲しい時の神頼みと言う事を申しますが、此処の前半の所は、いわゆる今までは悲しい時の神頼みであったろうがと、と云う様な意味ですね。ただこちらが願うだけ、頼むだけ。それが是れまでの信心と云う事になるんですね。方便の願い捨て。何処のお宮様に参っても、お寺様に参っても、ね。ただ神仏を例えば拝むと言う事。まあそれが信心だと言う風に思われて、ただ何か特別信心の厚い人でなからなければ、以外に人は何か困った時、いわゆる悲しい時の神頼み的なお願いをした。
それは何処までも、ただこちらが色んな事を願うと言う事だけであった。方便の願い捨てである。それでも一心を立てれば和賀心に神が御座るから、おかげになるのじゃと。この辺の所、ね、やはりそれでもおかげを受けたと言う訳。一心を立てると、やはり御利益はあるんだと。ね。いわゆる真あれば徳ありと云う様な事なの。だからそれだけでも、まあ良かりそうな物なんだけれども。ね。
それでは私共の本当の幸せには繋がらない。ただ自分の願い事が成就する。自分の頼み事が成就するさえすれば、私共は幸せに成る様に思うけれども、実際は決してそうでは無いと言う事。ね。どう言う事でしょうかもう此処は、ちょっと考えて見ただけでも分かりますよね。願いを立てて願いが成就すると。甘木の初代がもう何十年も立って後の何か、記念祭か何かの時に、御挨拶の中に仰って居られる御言葉がありますね。
私が神様にお願いをして来た事が成就しておったら全部。現在の甘木は生まれとらんと仰ったち。右と願えば左、左と願えば右と云う様な事であったけれども。此処では是れほどしの沢山な人が助かる様になり、是れほど有り難い信心を安武先生御自身がお受けになられた。私が願うて来た事を、神様がいちいち聞いておって下さっておったら、現在の甘木はない。是れは私は合楽の場合でもそれが言えると。
だから皆さんの場合でも、それが言えると云う所まで信心を一つ分からせてもらい、進めて行かなければいけないと。昨日から、昨日、お月次祭のお話の中にも私が申しました様に。ね、是れはもう、最近私が、もう口を開けば言う事ですね。此処十日あまり。金光様、金光様を唱えさせて頂く。それを日に何十回となへるやら分からない。その金光様は神恩奉謝の心の表現だと言う事を、私は最近、事実そうなんです。
金光様。それは願い事があって、金光様と言いよる時もあるんですよ。ね。けれども金光様ーと言いよるとですね、願う事もさる事ながらね、もうお礼を申し上げる事の、周辺に多い事に驚くばかりなの。それ程しの物がですね段々ね、身に付いて来たと言う事は有り難い。そして同時にね、一切が神愛言うならば、全ての事が神様の御都合なのだと言う事。信心しておって、どうしてあの様な事が起こるであろうかと云う様な事が、信心しておっても起こって来るんです。
けれどもそれを私が此処から、はあおかげを頂きましたなと。神様の御都合ですよと。私は言える。けれども受ける方の側がです言うなら、どげな御都合ですかと、こうムキになってそれを思う思うた、言うたりしなければ成らない様な事では、本当のお取次ぎは出けない。神様の御都合ですよと。愈々御神意をその事を通して深く分からせてもろうて、おかげ頂かなきゃならない。神様の御都合という、ならそれを、まあ一言にして申しますなら、神様が愈々おかげを下さろうとする働き以外にはないと。ね。
それは人間のまあ一番最大の悲しい事に直面いたしましてもです。難儀と思わなければおられない事に直面致しましてもです、神様の御都合です。どう言う御都合ですかよりおかげを下さろうとする神様の働きですと、云う様な事が私が段々実際分かって来たと言う事はね。私の願いが一々成就しておったらこう言う心の状態は開けて来てない。ね。私が願うた事が願い通りになって行くとするなら、しておったら現在の甘木の信心は生まれてはいかなかったと、安武先生が仰ったと言うお話で御座いますけれども。
是れは、私自身もそれを実感致します。一心を立てて、言うならば神様をごうぐる様にして、おかげを頂くと申しましょうかね、この辺の言葉で言うなら。どうぞどぞと言うておかげを頂く。そこに一心を立つると立つるから和賀心に神が御座るから、おかげになる。一生懸命の修行をする。それは木立に向かって願っても石の祠を拝んでも、例えばそう言う奇跡を見る程しの御利益が受けられる。
それはしかしその拝んだ木立から生まれて来るのでもなからなければ、祠を拝んだから生まれぬ。和賀心に神が御座るからそう言うおかげを受けるのだと言うておられますわね、金光様。ただ願うだけですから。いわゆる片便の願い捨てである。そこでどう言う事にならなければならないかと言うと。生きた神を信心せよと言う事になるのです。生きた神を信心せよ、天も地も昔から死んだ事なしと。
そこで例えば拝む対象という物が、ね。木立でもなからなければ石の祠でもない。ね、天地を対象とした信仰がそこから出けて来る。天地を対象とする。しかも生神金光大神を取次ぎとして、ね、金光大神のお取次ぎを頂いて、金光大神を通して天地金乃神様を拝ませて頂くと言う事になる。その拝ませて頂く天地は、ね、昔から死んだ事なしと。いわゆる天地が生きて御座ると言う事である。ね。
その生きた天地が、生きて御座ると言う事を分からせて貰う。ね、天地の親神様天地金乃神様のお心を分からせてもらう。いわばね天地の法則とでも申しますか。ね、または天地の中にある真理を追究すると言うても良いでしょう。ね。その進路を求めながらの生活天地の法則に従った生き方。そう言う生活の在り方を金光大神御自身がなされて。ね、そこから天地が生きて御座る印と思われる程しのおかげを受けて来られた。
この方が祈る所は天地金乃神と一心なり。ね、これはまあ最上最高と申しましょうか。ね、人間として、もう後にも先にもこの様な方はあるまい。天地金乃神様が、もうそれこそ教祖金光大神にいわば縋って、神様が世に出ろうとなさったほどしのお方。ね。そこで天地金乃神と同梱ともまあ立てとも、天地の親神様は仰っておられる。教祖金光大神はまた天地金乃神と一心だと御自身仰っておられる。ね。
だからそれ程しの方の取次ぎを願うという事は、だから是れはそのお取次ぎを願うと言う事はもう、事においてはもう言うなら完璧な物なんですね。金光大神のお取次ぎを頂くと言う事は。受ける方の側に完璧でない所からまあおかげが、いわば乱れて来ると言う事にもなって来るのですけれども。ね。いわゆる金光大神の天地金乃神様から受けられた絶大なる御信用とでも申しましょうか。ね。
その金光大神が天地金乃神様から受けられたその御信用にすがって、私共はおかげを頂いて行くと言う事になる。そして、生きた天地、生きた神様である事実を体験する訳であります。昨夜、私共休ませて頂いたのは、もう一時過ぎでした、一時半ぐらい。雑誌金光青年から、私にこういう講題の元に何か書けと言うて、原稿用紙を送って来とった。でそれを、まあ今度掲載させてもらうんだと言う訳です。
と言うて私がなかなかそのいわゆる文筆が達者でないですから。それで私がお話をした事を書いてもらおうと思いまして何時の、何か前の御理解を送る事になった訳です。でそれをちょっと長過ぎる所は短くし、また分かり憎い所は分かる良い様に色々と昨日、あそこ2~3人高橋さんを始め。でそれが終わるのを待たせて頂いておりましたです。ですからもう一時過ぎました。ね。
ですから休ませて頂いてしばらくしまっしばらくして、ほんなスーと今眠ったばっかりと云う所へ、ある所から電話が掛かって来たという。もう丁度愛子が今御神米の御用を頂いておりますからもう起きておった。電話が掛かってお願い。まあ本当に大変な難儀な問題の事なんですよね。そげな大変な事誰かお願い参りでもして来りゃええ、遠い所でもないのにと私は思いましたけれども、電話のお願いであった。
神様にお願いをさせて、床の上でお願いさせて頂きましたら、極楽入門と頂いたんです。極楽に、これは命に関わるような事なのですからね。あいたあこれはもう難しいと思うたんですよね、極楽と言う極楽入門。そして私なおまたお願いさせて頂きよりましたら、合楽入門という。今度はまた同じ字で頂いた合楽入門と。極楽入門ち言うならそれは成る程信心させて頂いてお願いをして、やはり死ぬると言う事はねやはり金光大神のお取次ぎのおかげ。その余徳でですね確かに魂も助かりますね。
昨日お届けがあったんですけれども、あの佐田さんの所に勤めておられた、お店に勤めておられた御爺さんですけれども具合が悪かった。ずうっともう随分長くお届けがあっておりました。病名が分からないという。その御爺さんがその昨日事じゃったですかね。だから一昨日か亡くなられた。けれどももうお話を聞けば聞くほど、おかげを頂いておられたなおかげを頂いておるなという事を、感じなければおられない程しのその素晴らしいお国替えであったと言う事なんです。
昨日はそう言う意味でのお国替えのお届けを二つさせて頂いたんですけどね。善導寺の原さんを通してから、お願いがあっておった。これももう八十からのおじいさんですけども。もうそれはそれはもう本当におかげを頂いてお国替えをすると言う事が、此の様にも素晴らしくて此の様にも、まあ楽な事だろうかと思われる様なお国替えであった。もう早速お国替えと同じに、そちらからお礼のお届けがありましたがね。
もう本当にこれはお願いしておって頂いとったけん、お願いしちゃおかげとは思わにゃおられないと云う程しにです。これは佐田さんの場合でも、今原さんの場合でもそう云う様な、昨日はお届けを二つ御座いましたがね。もう本当に死ぬると言う事も、此の様にしておかげを頂く、死に際にも願えと仰るが本当にそうだと、ね。断末魔のいわばその苦しみを持ってあの世へ行くと言うのではなくて、もうそれこそ有り難い有り難いでその、まあ死ぬる者がそう感じれれる程しに、おかげを受けられる。
ですから、ね、例えば合楽にお願いをしよう、お取次ぎを頂いて例えばんなら、この従業員のお届けをなさるにしましてもです。ね、例えばそれが亡くなるに致しましても、おかげを頂くと言う事は、それで分かる。だからまあ極楽入門であるけれどもです。やはり私共はね一日でも生き長らえて頂きたい、願わくば助かって貰いたい。もう一偏元気になって貰いたいと言うのが私共の願いなんですから。
そう言う願いじゃった、夕べ。そしたら神様から極楽入門と頂いた。あいたこれは難しい。それでもなお、私はその方の、何か叔母に当たる者ですから、何とか言うてからその、本人からでもなかったんです。ね。本当に遠い所でもないのに。夜でも良いよか夜中でもいいじゃないか。自動車は持っとるから、ちょっとお願いに来ればいいのにと、まあ思いましたけれどもね。
ならお願いさせて頂いておりましたら、いわゆる合楽入門と言う事を頂いた。と言う事は信心に入門する。そういう難儀な問題を通してです、ね、合楽に入門すると言う事。是れは大変意味の深い事だと思います。ね、是れは合楽のそう言う事から合楽の信心に帰依をする。ね。そこから合楽の信者になり、良い信心が育って来る。そこから人間の本当の幸せの道が分かる。または合楽と言う事は、合楽である。
いわゆる神様此処ん所に、前半にありますように、片便の願い捨てでは無くてです、金光様の御信心はお願いをする、またそれに対する御返事がこの様にしてある。毎朝の御理解、お届けをさせてもらうと、頂く御理解。それが神様のいわば御返事である。ね、片便の願い捨てではない。また神様の心神様の願いを私共に打ち明けたり、または話して下さったりするのが御理解なの。ね。
其処で私共の願いと神の願いとが交流する。ね、其処でんなら信心で、此処でおかげと言うのは、私共の願いが成就するだけではなくて、神の願いも一緒に成就して行く。ね。だから合楽になるのだ。ね、いわゆる信心共栄なのである。
神様と人間とが、共に栄えて行くと言うんです信心共栄。共に楽になって行く。共におかげを受けて行くと言う信心が其処から始る訳です。金光様の御信心によって。氏子の幸せを願って下さると言う事は、もうお腹の中に宿った時から、神の願いが掛けられておると言う事です。ね。此の世にいわば出て来る、出生のおかげを頂く。ね。もうすでに神様の、氏子幸せになってくれよと言う願いが様々な形で現れて来る。
だからこそ、私共が生きた天地の心を分からせてもらい、心に添わせて頂こうと一心発起して、昨日私は申しましたでしょう。ね、お互い金光様の御信心を頂いておりますと、こう言うけれども、いっちょん頂いとらんじゃないか。ただ信心しよるち言うだけじゃないか。金光様の信心を頂くと言う事は、いわゆる教祖金光大神が頂かれた信心を、頂くと言う事なんだ。ね、
教祖様が頂いておられた信心を、自分にも別けて頂くと言うのである。又はそれを真似すると言うのである。いわゆる金光大神の生きられ方を、自分の生き方の上にも現して行こう、頂いて行こうと言うのでなかなければ、金光様の信心を頂いておるとは言えんて。金光様の信心を頂かなければ駄目だと、私は昨日其処ん所を強調しましたね。なら金光様の御信心を頂くと、どう言う事になるかと言うとです。
いわゆる天地が生きて御座ると言う事実を体験する事が出来る。しかもその天地しかもそれを親神様と表現するなら、天地の親神様は人間氏子の幸せをいよいよ願って御座る。だから信心しておかげを受けてくれよと言う、その願いになって来ておる、神の願いが。ね。その事を私が私共の父の例を持ってお話しましたです。もう天地の節理とでも申しましょうか。神様が定めてお出られる。
人間が幸せになって行く道筋というものは、ちゃあんと作っておって下さるのだけれども、その道を踏まずに、霰の道を踏む所に、幸せとは合判した道、本当に此の世は、苦の世、苦の世界になってしまうのです。金光大神は其処を教えられた、其処を説かれた。ね。いわゆる、それを真の道と言うのです。ね。そのなら真の道と言う、それは人間の事ですから、何処にお粗末御無礼があるやら分かりませんけれど。
そう言う神の心を心として、天地の心を心として、そう言う生き方になろうぞと、心を其処に向けた所から、もうおかげが始る。私の父が、例えば完璧な信心をしたとは思われませんけれども。ね。あの、昨日、一昨日の、米寿の御礼祭を使えさせて頂いた事から例をとってお話しをしました。五月の十七日に生まれております。是れが、五月の十六日であってもいけなかった、十八日であってもいけなかった。ね。
十六日は日田支部の御大祭であった。十八日は所謂昨日ですね、お月次祭であった。それにあれだけ、例えば此処としては大係りな、お礼御礼祭をさせて頂いて、後の御直会の事まで、いわば一日係りで、それに当たらなければならない様な行事がなされたんですから、さあ、五月十七日に生まれとらなければいけない、誕生日を変えてから、お祝いして言うかお礼せにゃならんて云う様な事になる訳です普通は。
けども私はそこを信じておる。そこを信じておるから、やはり御礼祭を仕えるならば、本当の八十八回の本当の誕生日の日にと、願わせて頂いてそれが出けた訳なのである。言うならば、八十八年前からです、この事が神さだめてあったという意味のことを、詳しく昨日話しましたね。生まれる時から、いわゆる八十八年前から、こんなにも間違いのないキチッとした働きの中に、まあ父で言うならば、ね。
八十八年の間の中で一番めでたい、一番有り難い。もうそれこそ有頂天にならなければおられないほどしの、最良の日であったであろうと私は思う。それがそう言う神ながらなと申しますかね、間違いのない働きの中にあったと。天地に節理と言う事をがです。ね。その様な働きと言う物を現して行けれる道を、金光大神は教えられた。片便の願い捨てではなくて、また帰りにもその話を聞いて帰ると言うのは、そう言うおかげの受けられる道を教えられるのですよ皆さん。
だから金光大神の、の信心を頂いておりますならば、金光大神の言われる事を頂いて帰らなければ、金光大神の信心を頂いておると言う事は言えないと云う事。本当の意味において、皆さんどうぞ一つ合楽入門をなさらなきゃ。ね。神も助かり氏子も立ち行く道。そう言う道がある。そう言う道に出らなければならない。それには先ず天地が生きて御座ると言う事実をね、私共が体験させてもろうて。
しかも生きて御座る其の天地は、親は子を思う心を持ってです、親が子を思う切なる心を持って、氏子信心しておかげを受けてくれよと、願い続けて御座る。その願いに、本気でおかげを頂こうと言う気になると言うう事がです、一心でなからなければならん事になります。ならそのおかげを受けたいと言う、その一心がですどういう事になるかと言うと、金光大神の信心を頂くという事になるのです。
言うならば皆さんがお願いをなさる。同時にお願い其処ん所をお取次ぎを願い、お取次ぎを頂くと申されておりますね。お取次ぎを願うたならば、またお取次ぎを頂いて帰らなければならん。皆さんが今、お取次ぎを頂いておられる訳なんですよね。こうしてお取次ぎを頂いておられる訳なの。だから此処で皆さんがいろんなお願いなさる事は、お取次ぎを願っておられる訳である。
お取次ぎの願いと、お取次ぎを頂くと言う事がです、スムーズに交流をする。それが、スムーズに信心生活の上に現されて行くと云う所からです。私共の願いが成就し、しかもその願いは、神の願いでもあると言う、願いが成就して行くと言う事。大変こう事らしくなりましたですかね。もう一偏よく一つ考えてみて下さい。天地が生きて御座る。そこで、私共の心も生きておらなければならない。
五体はこうやって動いておるから生きておりますよね、肉体はけれども心が死んでおる人が沢山あります。いつもクーッとした顔をしとる人は、もう心が死んでおる人ですよ。心がね、いつも生き生きしとらなければならない。ね。理不尽の事を言われたり、されたりすると腹が立つ。もう涙が出るごと腹が立つ。そう言う時は心が生きとる時です。ですからそう言う生きた心は、だから悪い意味合いにおいて、おかげにならんです、ね。いわゆる、反対の事が起こって来るです。
幸せになりたいと言いながら、腹ばっかり立てよんなら、もうだから反対な方にサッサと、不幸せになって行くです。けれどもね有り難うして、有り難うして。ね。この頃から、佐田さんがずっとお届けなさっておられたように、家の中に様々な難儀な問題は、何時でも誰の家でもあるけれども、その事事態が嬉しゅうして、嬉しゅうしてち言って、佐田さんな言うておられるます。
そう言う時には、心が生き生きとしておる時なのです。いわゆる神様の御都合である事が分かるから、その事が嬉しい訳なんです。ね。そう言う生きた心を、私共の心から頂かせてもらう。心を生かす事の働きと言うか。ね、それを私は修行と思います。分かっちゃおっても喜びが湧かん、それは修行不足なんです。本気で修行させて頂こうと、心を決める。本気で修行をする事になりますとです、不思議にどっから湧いて来るか分からん、いわば信心の喜び生きた心が喜びになって現れて参ります。
そう言う心を持って、生きた天地を拝む。生きた天地に接して行く。其処から生き生きとした、いわばおかげが現れてくる。そういうおかげをです、私は神様も喜んで下さる、私共も喜べる所の、おかげになって現れて来る訳。お取次ぎを願って、お取次ぎを頂いて帰ると言う事は。私共の心が、せっかくお願いをしとるけれども心が死んどる。心が弱っておる、それでは受け漏らす。そこで、生き生きとした心を頂かせて頂く為に、御理解を頂くと言うも良い訳です。言うならば、寒露の法なんですお話は。ね。
植物がもう今にも枯れよる様な状態の時に。ね、今日こうしてお湿りがあっておりますがね、久しぶりに降ったお湿りでそれこそ植木も、ね、野菜も一切の物がです。それこそ、新たに生き生きとした命を頂く様な状態になって来る様なもんです。御理解を頂くと言う事は、そう言う、私共の枯れた心、萎れた心。そう言う心にそう言うお恵みの水を注がれる様なもの。だから心が喜びで一杯になって来る。そう言う心で天地を拝む。ね。だから、生きた働きがそこに現れると言う訳です。
どうぞまず自分の心が生き生きして来る事を願わにゃいけん、と言う訳ですね。